インドが俺を呼んでいる?

ジャンパトホテル(Janpath Hotel)の初老のベルボーイは、1ルピーのチップにうやうやしく礼をし、部屋を出て行った。

ベッドに仰向けになると、体の震えが止まらなくなった。 不安だ・・・・

何でこんな無茶をしたんだろう。 後悔で一杯だ。

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インドという国は以前から何か引っかかる存在であった。

高校時代の恩師である金丸七郎先生から、インド日本人学校時代のエピソードを聞かされていた事もあるが、 インドに興味を持ったきっかけは、自宅の本棚で見つけた一冊の文庫本との出会いが大きい。
清水潔さんというイラストレータが書いた、「インド・ネパール旅の絵本」というタイトルで、 他愛の無い内容の本ではある。
しかし、軽い文体と多用されたイラストから、鮮やかなイメージが伝わってくる。 一気に読み終えた後、しばしインドへの妄想にふけっていた。

大学院の卒業が近づくにつれ、卒業旅行の話題が多くなった。
当然、卒業旅行に行くつもりだったし、友人からも「2人で南欧周遊に行かないか?」と誘われていたりもした。  確かにオリンピック間近のバルセロナや南仏を見て回るのも魅力的かも知れないが、 長期間に旅行できるチャンスは滅多にないので、本当に行きたい所をじっくり考えてみたいと思った。
そんな時にふと、忘れていたインドへの想いが蘇ってきた。

「インドが俺を呼んでいる」

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大阪空港(伊丹空港)を離陸したエアインディアのA310型機は、急上昇して左に旋回した。  恥ずかしくも、後2日で25歳になる私にとって、初海外旅行&初飛行機だ。  客室乗務員もサリー姿、機内食もカレーと、早くもインド情緒に溢れている。

機体は最初の降下を始め、雲を抜けると、ジャンク船が停泊する港町が出現した。  生まれて初めて見る外国の地である香港に、途中経由するのだ。  高層ビルの谷間を縫うように、まるで窓に手が届くように、啓徳空港に着陸した。
1時間あまりの短い駐機時間ながら、生まれて初めての外国の土地におのぼりさんの私は、 せめて空港構内だけでも見学しようと、エアインディア機から降りることにした。

啓徳空港の免税店を冷やかしてみたが、特に興味があるものは無い。 早々と空港見学を切り上げ機内に帰って来た。

無い!

前席のポケットに入れていたはずのガイドブック全てとフィルムが無いのだ。 客室乗務員に事情を説明するも、「我々には何もできない。エアインディアの本社に言ってくれ」との一点張りなのだ。

困った。 困ったというよりも呆然とした。 ガイドブックが無ければ、どこに行けば良いのかさっぱり分からない。  旅行前におぼろげに想像していた、インドでの旅程や宿泊するホテルの情報が、完全に真っ白になってしまった。  隣の香港人乗客が心配して話しかけて来てくれたが、この状況では何の解決策も考えられない。
楽しいはずの卒業旅行が、一瞬にして不安を抱えたものになった。

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エアインディア機の最終目的地はボンベイ(ムンバイ)であるが、私の降機地は首都デリーである。 空港を出る足取りは重い。
夜8時過ぎのインデラガンジー空港に一人たたずみ途方に暮れている私に、客引きが群がってきた。  幸い、大学生協で購入したチケットには、初日と最終日のホテル予約が付いていた。  「ジャンパトホテル?」止まっていたバスの運転手に暗記していたホテル名を告げると、彼は頷いた。
幸いにも初日と最終日のホテルは予約してあった。 ホテルに到着さえすれば何とかこの最悪の状況から抜け出せる。  気が緩んだのも束の間、誰かが私のバッグを強引に奪うと、バスの中に運び込んだ。  唖然としている私に向かって、彼は手を差し出し「バクシーシ」とのたまう。 いきなりの洗礼だ。
ポーターを頼んだつもりは無いのだが、精神的に追い詰められていた状況では、彼と争う気力も失せていた。 言い値の5ルピーを彼に支払いバスに乗り込んだ。

暗い夜道に点在する焚き火、路上生活者では無いかと思われる。 今の心理状況では何を見ても恐ろしい光景に思える。  なんて国に来てしまったんだろう。 今となっては取り返しがつかない。
ホテルまでのバスの中、不安で押しつぶされそうだった。


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