デリーのドミトリーにて
疲労感で早く寝たこともあり、インド最初の朝は目が早く覚めた。
窓の外には白い外観のインペリアルホテルが見える。
ベッドに横たわり、ぼんやりと部屋の天井を眺めていた。
現在は落ち着いてはいるものの、昨日の出来事を反芻してみると外に出る気にはなれない。
インドに行って、ショックのあまりにひたすらホテルの中で過ごす人もいるとの話を聞いたことがあるが、
ひょっとすると私もその1人になってしまうかも知れない・・・
そのまま何時間を過ごしたのだろうか、勇気を振り絞りホテルを後にすることにした。
ガイドブックさえ入手できれば、何とかなるはずだ。 そのためにも日本大使館を訪問してみよう。
ホテルをチェックアウトすると、ジャンパト通りを北に進んだ。
私の脳内地図によるとホテルの北側には、デリーの中心であるコンノートプレイスがあるはずだ。
町を歩く人々の眼光はとても鋭い。 私に対して敵意を持っている訳ではないと思うが、明らかに外国人であると意識されているのは確かだろう。
コンノートプレイスを歩く会社員風の人々に、日本大使館の場所を尋ねてみるが、誰も分からないようだ。
一般の人々にとって、外国の大使館なんて関わりのないものだろうから、分からないのも無理はないだろう。
30分も歩いただろうか、幸運にも二人組の日本人に遭遇した。
「日本大使館は分からんなぁ。 でも我々の宿には地球の歩き方が大量に放棄されてんでぇ。」
すがるような思いで、彼らの宿に連れ帰ってもらえるよう、懇願した。
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ニューデリー駅前の商店街メインバザール(パハールガンジ)の一角にあるクッキー屋の2階以上が、
彼らの宿、ウッパハールゲストハウス(UPAHAL Guest House)であった。
ターバン姿の宿の親父に空き部屋を尋ねると、シングルルームは埋まっているが、ドミトリーのベッドは空いているらしい。
日本を出発する前には、就職を前にして、「くずれた」旅行者になるのは避けたいと考えていたので、正直なところドミトリー利用は躊躇したが、
とりあえず部屋を確認させてもらうことにする。
一見すると20個程のベッドが並ぶ大部屋の中にいる客は、全て日本人に見える。
日本人同士であればさほど、風紀は乱れていないだろうし、不安な現状を少しでも解消できるかと思い、1泊25ルピー(125円)のドミトリーを経験してみることにする。
ドミトリーのベッドはアルミフレームに、ビニールの紐が巻きついているタイプ、すなわちビーチにあるアレである。
自分のベッドを確保すると、バックパックを鎖と南京錠でベッドのフレームにくくり付けた。
ドミトリー内で盗難が発生するのは稀であるとのことだが、各自の荷物を厳重に管理するのはドミトリーのマナーだ。
いざ荷物が無くなった時に、周りの人間にあらぬ嫌疑がかかるのは気持ちの良いものではないし、犯罪を誘発する可能性も否定できない。
現金やパスポートのような貴重品も、腹巻などで体に縛り付けておくのは当然のことだ。
「恩人」2名と食事に出かけた。 インド最初の夕食はベジタリアン食堂でのターリーという定食。 大皿中央のご飯の周りに3種類程度のカレーが並並び、
チャパティというクレープ状の無発酵パンが添えられている。
日本では発酵パンであるナンの方が知られているが、インドの庶民にとっては、高価なナンはお手頃では無いようだ。
パサパサの米には味らしきものがなく、肉の無いカレーは何か物足りない。 香辛料は効いているが、旨みが足りない。 特に小豆の塩茹でのようなスープは不味い。
机の中央には大皿にもられた玉ネギのぶつ切りが置かれており、食べ放題である。
紫色がかった小ぶりの玉ネギには、多少土が付着しているが、みんなお構いなしにバリバリと食べる。
「恩人」らの話を聞いた。 メインバザールには二つの日本人宿があり、一方が我々のウッパハールゲストハウスで、他方はハニーゲストハウスというらしい。
「恩人」の内1人は、私と同じ大阪人で明後日の夜行列車でバラナシに向かうということだ。
彼が泊まる宿を尋ねると「クミコハウス」という日本宿を予定しているらしい。
私もバラナシに行くつもりだったので、恩人の1人と同じ日程でバラナシに移動し、同じクミコハウスに宿泊したいと告げた。
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ドミトリーの貧相でガタガタのベッドの寝心地は最悪であった。 1つしかないシャワーは冷水のみで、しかも便器の上で浴びなければならない。
また朝の冷え込みも相当きびしい。
お世辞にも、住環境は良いとは言えなかったにも関わらず、ウッパハールゲストハウスでの生活は快適だった。
ドミトリーでの人間関係には、独特の気楽さがあったのだ。
朝は自分のペースで起床し、あたりを見回す。 目が合った人と朝食を共にし、気が合えば一日の行動を共にすることもある。
一日中ベッドに横たわっている埋没型の人もいれば、エネルギッシュに活動する人もいる。
お互い干渉する事は無いが、かといって孤独でもない。 暗黙のうちに、ある種の共助のルールが存在するのだ。
これがいわゆる、「バックパッカー」というやつかと勝手に納得する。
しかし、他の人に言わせると、この人間関係は発展途上国を旅する日本人同士ならではの現象らしい。
これが先進国であると状況は一変するらしい。 一人旅の日本人同士は、お互いを避ける傾向があるとのことだ。
メインバザールの名物店として、「ゴールデンカフェ」なる食堂があった。
「チョウメン」と呼ばれる謎の焼きそばもどきのメニューや、ステーキまで食べられる店だ。
牛肉を食べないインドで、ステーキが食べられるのは不思議だが、このステーキはバフ・ステーキといって、
水牛肉を用いており、宗教上はノープロブレムらしい。
コンノートプレイス近くには、ハンバーガーショップまである。 ただし、使われている肉は100%マトンだ。
インドの民族衣装であるルンギー(腰巻き)に着替え、夜のメインバザールをあてもなく徘徊した。
オレンジ色の電灯の下に露天が並び、家族連れがそぞろ歩いている。
何故かノスタルジーを感じさせる風景だ。 幼少の頃に親や祖母に夏祭りに連れて行ったもらった自分とダブって見えた。
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二晩お世話になった、ウッパハールゲストハウスを後にする。
夕刻のニューデリー駅発の夜行に乗って、翌日早朝にはバラナシに到着する予定だ。
もっとも、帰国はデリーからなので再び舞い戻ってくるつもりなのだが・・・
改めて昨日購入したチケットを眺めていると、重大な事態に気が付いた。
今日は14日なのだが、チケットの日付は19日なのだ。
早速、ニューデリー駅のチケットカウンターに行き、発券間違いを主張し、チケットの再発行を要求した。
窓口のの女性職員に経緯を説明するものの、彼女は官僚的な態度で、「このチケットは19日発なので、あなたは乗車できない」と繰り返すのみだ。
30分も粘っただろうか、根負けした彼女は私を諦めさせるつもりで、購入申込書の束を繰りはじめた。
しかし、そこに出てきた発券申込書には、私の字で「14」と書かれてあった。
流石の彼女も舌打ちをし、端末のキーボードを叩くのだが、今度は「予約が一杯でチケットが手配できない」とのこと。
等級の変更も、列車も変更もOKだから、何とかバラナシまで行かせてくれと言っても彼女は「ノー」を繰り返すのみだ。
二人のやりとりを見かねたのか、責任者らしき男性職員が近づいてきた。
「あなたはバラナシに行きたいか?」 彼は日本語で私に問いかけた。
「はい」と私が頷くと、彼は端末を叩き一枚のチケットを出力して持ってきた。
オールドデリーを深夜に経ち、バラナシ・カント駅に明日の正午に到着する「ドゥーン・エクスプレス(Doon Express)」
のAC 2-Tier Sleeper(エアコン付き2段寝台)であった。 「あるんだったら早く出せや!」と心の中で呟いた。
「ただし」、彼は付け加えた。「チケットの変更手数料を支払ってくれないか?」と。
先程からの彼らの態度の意味が分かった。 要するに自分達の発券ミスとして処理したくないのだろう。
自分に非が無いにも関わらず、引き下がるのは悔しいが、ここは一つ穏便に済ませる事にした。
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サイクルリキシャーでニューデリー駅からオールドデリー駅へと移動する。
オールドデリーの町並みは暗く、路上生活者の焚き火が方々に立ち上っている。
インド初日のバスから見た時には恐怖心を覚えた風景であるが、インドに慣れつつある身にとっては、
むしろ幻想的にすら感じられるのは不思議だ。
コンクリート造りのニューデリー駅に比べて、レンガ造りのオールドデリー駅は重厚な感じだ。
表示も何も無いホームで目的の列車を探すのは大変であったが、西洋人が多く並んでいるホームで待っていると、
定刻から30分程度遅れて、ドゥーン・エクスプレスが入線してきた。
AC 2-Tier Sleeperは2段寝台にカーテンが掛けられていて、昔乗った急行銀河のB寝台に構造が似ている。
ただし、インドの車両は車幅が広いため、寝台もゆったりとした感じだ。
ベッド上段の客はラックナウ(Lucknow)に帰る鉄道技術者とのこと、新幹線の話をしきりに聞かれた。
向かい側の4人スペースには、幼い子供2人を連れた家族連れが陣取っている。 子供は外国人の私に興味深々だ。
紙飛行機を作ってあげたりして彼らと遊んでいると、母親が恥ずかしそうに話しかけてきた。
残念ながら私も彼女も英語力に難があるため、うまく意思疎通ができないのがもどかしい。
列車に乗るとか、ホテルに泊まるなどの事務的な作業には最低限の英語力で十分ではあるが、
現地の普通の人と交流を深めるには、それなりの英語力が必要なんだと痛感した。
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